林檎争奪戦ゲーム 1−2
〜静かなる終止符2〜
深夜の住宅街だ。これまでいた繁華街と違って人などいる筈もなく、ただ外灯だけが淡い明りと共に見守っていた。
望が住む辺りは、滅多に人など訪ねてこない。
平凡な家族の多い町をわざわざ選び、越して来たからだ。適度な近所付き合いをし、お互いが助け合う、そんな昔ながらの風習が続く町。
夜遊びをする者はいなく、望の様に、たまに外へ出て飲みに行く男さえ珍しかった。
望は息を整えると静かな路地を曲り、月明かりに光るマンホールの前に立った。
人影は無い。いつもの風景。
胸騒ぎの原因らしきものは無く、思わず安堵の息を吐いた。
横を見ればレースのカーテンから暖かな明りの漏れる家がある。腕時計は10時を指していた。
錆びた鉄の剥き出した階段がカランカランと音を鳴らす。
ただ、それだけが深い夜に飲み込まれていく。
そこに一つだけ、いつもと違う所。
薄っすらと開いた家の扉。自分のものでない、靴の跡。
別に無用心にしていたつもりは無い。
今日家を出る時だって、2回ほどノブを回して確認をした。
「あら」
突然女の声。
聞き覚えがあるかどうかだなんて、考えは思いつかなかった。
冷や汗が頬をつたって落ちる。
恋人はいない。同居人はいない。親でさえ住む場所を知らない。
自分以外中に入れるものはいない筈だった。
だが銀のノブは触れる前に下へ下がり、薄汚れた赤い戸が開く。
「思ったより遅かったわね」
中から現れた茶色く長い髪。
カツリと紅いハイヒールが地面とよく響く音を立てた。
少し長い爪の指が柔らかく髪を掻き上げ、自信に満ちた唇が笑う。
その仕草には見覚えがあった。
「……キョウ?」
「もう少し気を付けた方がいいわよ。小学生だって開けられるわ、こんな鍵」
にっこりと笑う顔に、似合わないほど赤い唇。
妖艶なそれはさっきの女よりも魅惑的で印象的。
「あんただったか……」
「ふふ、吃驚した?」
微笑む『キョウ』に望は安堵とも呆れともつかない息を漏らした。
思い出せなかったのが彼女なら納得がいった。
彼女の本名は知らない。キョウと言うのは仕事上での名前――所謂コードネームだろう。リスクを少しでも減らす為、この世界では誰もが自らの名前を隠す。調べて素性が判るほど間抜けな奴は生きていない。一流だ二流だとランク付けをする奴が昔居たが、何てことは無い二流以下は消されるだけだ。
彼女とて超一流の腕を持つ、業界のプロである。
職は望と全くむ違うが、知らないものから見れば似たようなものだろう。
望は作る側の人間であり、キョウは消す側の人間だった。
望とスポンサーが被った事があり、お互い感情に流されないところもあって、割と良いパートナーだった。――仕事でなければ二度と会いたくない相手でもあったが。
そして彼女の生業を考えれば、今この状況は望にとって、最高に嬉しくないパターンだった。
「にしても、貴方にしては貧相な住まいね」
「逆にこういう方が良いよ。かえって見つかりにくいんだ。あんたみたいな人を除けば」
「まぁ、そうでしょうね。普段のスーツをビシッと決めた姿からは想像もつかないもの」
何が嬉しいのか、キョウはからからと笑い出した。
望は理解できないと呆然とその様を見つめる。
「何その表情は」
「君がここに居る時点で驚いてもおかしくないだろう」
「だって、貴方らしく無いのよ」
膨れてみせる顔は、とてもじゃないが望より十は上の齢と思えない。
「もっと悠然と構えててよね?最期の時くらいそうしてたっていいじゃないの」
「……ああ、やっぱり」
ふと望の顔に笑顔が浮かんだ。
「俺を消しに来たんだ」
「そういうこと」
キョウはただの世間話のようにあっさりと認めると、腰に当てていた手を上げて、細い望の首を撫でた。
「手に入らないなら、いらないって。だから、誰の手も届かない所に行って頂戴な」
「我儘な人もいたもんだね」
「何言ってるの。そんな奴だらけよ」
「そうだったね」
予想できない結末ではなかった。
準備は万端。未練も無い。
キョウのさっぱりした性格も、自分のこの潔さも、望は結構気に入っていた。
無闇に足掻くつもりは無い。が、それは簡単に手放して良い物とも思っていなかった。
「……君は今夜中に俺を殺せば良いんだろ?じゃあその前に茶でも飲まないか」
流石にキョウが驚きに目を開く。
だが次の瞬間には腹を抱えて笑い出し、上げた目にはからかうような色が含まれていた。
「何、お茶なの?」
「勿論。酔って手元狂わされちゃ、苦しいのはこっちだからな」
「……成る程ね。いいわ。我慢しておく」
「悪いな」
証拠は全て消した。
周囲との関わりも、生きていたという証も。
これでこの身体を消す事が出来るなら、全てが『無かったこと』になるだろうに。――神はそれを許さない。火に包まれれば可能だったかも知れないが、生憎今の住まいはアパートだし、そんな派手な死に方はゴメンだった。それに別に死を望んでいる訳じゃない。望むのは唯の『無』だ。
やり直しとまでは言わない。せめて白紙に戻す事は出来ないのだろうかと考えた。
それは人が一度は望む後悔からの逃避かもしれない。
多分全てを捨てる事ができれば、普通それは叶える事が出来るのだろう。だが、何も捨てられなかった欲張りな自分には、それ相応の罰が待っていた。やっと捨てる決意をした時は既に遅く、周りはそれを許してくれない。
望は思わず自嘲の笑みを漏らした。
才能なんて無ければ良かった。そればかり求めて探していた十代の頃が馬鹿みたいだった。これさえなければ、いやせめて隠していられる位謙虚な人間だったら、普通の暮らしだって出来たのに。
せめて、願わくば大切な人に、自身を見てくれた人に、その火の粉が及ばぬよう。
視線の脇を飛ぶ銀色の光を見つめて望はただ一心に願った。反射する光がだんだんと赤く変わっていっても、望の心の中を占めるのは、現世の友への心残りだけ。
良い奴だ。逢って間もないのに。あんなに安心出来る人は初めてだった。
力が抜け、冷え始めた手が一度だけピクリと動いた。
ヒントは大量に残した。
もし無いと逆に彼が危ない。
あの人達が気付かない可能性なんて、本当は欠片も無いのだから。
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